焼物と器の話

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焼物と器のはなし

こちらでは、株式会社京雅堂 柴田社長が、調理専門学校にて講義したお話しを載せています。

■ 序

やきものは世界にあふれ、また、現代人には欠くことのできない消費材であり、対極に美術品として干渉の対象でもあるが、日本人ほどやきものを愛し、好み、楽しむ国民はないといわれる。

やきものにさほど興味、関心のない人でもプラスチックの器で食事が運ばれてくれば顔をしかめる人が圧倒的に多い。実際にはベークライトの器であっても食の「味」は化学的に違いがあるはずはない。

「味覚」は科学的な味だけではない。おおかたの日本人は老若男女の差別なく、やきものに関して、やきものを通して味を知り、やきものを楽しむ素質を持っていることになる。

しかし、やきものを語り、やきものを研究する態度においても、日本は海外よりも進んでいるかと言えば少し首をかしげたくなる。

古伊万里の価値は、海外の人により火がつき、流出した品を美術関係者はオークションなどで買いもどして、多額の金を払って落札する様子をわれわれはよくニュースなどで目にする。

われわれが進む道がやきものとはきっても切れぬものがあるなら、それなりに若干の勉強や研究が必要なことはいうまでもない。

とはいっても、やきものの歴史は古く、窯も多く、多様に渡っているので、すべてを見たり、覚えることはまた不可能であるし、また、そんな必要もない。専門書に書いてあることは読めばとたんに頭が痛くなり、そんな面倒なものはやめようという事になる。
これから最低限の知識の入口と、大きな意味での歴史を、できるだけわかりやすく記述していく。

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世界では、推定BC4000年前のペルシャ今のイランの首都テヘランあたりでやきものが焼成されていたと思われる窯が発見されている。

日本では、縄文時代、縄文式土器がやきもののルーツ。
 ・縄文式土器には、粘土の棒をはりつけ曲線を描いているのが見られるが、この感覚は世界に類例がなく、日本人独特の美的感覚が表現されている。

日本六古窯 (須恵器生産)12世紀
-----渥美・猿投・瀬戸・常滑・越前・信楽・備前・丹波

・瀬戸----奈良時代より釉薬のかかった品が作られる。1000年を越える製陶の歴史を持つ
・常滑----平安末期から鎌倉にかけては、3000を越える窯があった
・越前----鎌倉時代より始まったといわれる。
・信楽----(紫香楽) 1200年前
・伊賀----信楽と同じくらいの歴史がある。
・丹波----鎌倉時代
・備前----平安時代から現代にいたるまで、終始一貫釉薬をかけない焼締(やきしめ)の器を作っているやきものの産地。
A.陶器とは、粘土、土物の事である。酸化アルミニウムを主体として作られ、割り合い低い温度で焼成される。

B.磁器とは、長石系の土、カオリンを主体として作られ、高熱で焼成される。

C.半磁器とは、陶土と磁器粘土を合わせたものである。
A. 青磁
B. 白磁
C. 青白磁
D. 鉄砂(てっしゃ)
E. 辰砂(しんしゃ)
F. 志野
G. 織部
H. 黄瀬戸
I.  粉引
J. 伊良保
K. 瀬戸黒
この中でA~Eは中国より技法、技術が入ってきたもの。
F~Kは日本人自身の手ではじめて生まれたやきもの。







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A. 祥瑞(しょんずい)
B. 染付(青華)
C. 赤絵(万歴赤絵)
D. 鉄絵
E. 乾山
F. 仁清
G. 鍋島
H. 柿右ェ門
I. 菱容手
J. 古伊万里
祥瑞柄 青華 万歴赤絵 鉄絵 乾山 仁清 鍋島 柿右ェ門 菱容手 古伊万里
六古窯の他に
京焼(清水焼)
有田焼
伊万里焼
三川内焼(みかわち)
平戸焼
萩焼
大川内焼(おおかわち)
美濃焼
益子焼
唐津焼
九谷焼
万古焼
薩摩焼
砥部焼
赤膚焼(あかはだ)
朝日焼
京都府
佐賀県
佐賀県
長崎県
長崎県
山口県
佐賀県
岐阜県
栃木県
佐賀県
石川県
三重県
鹿児島県
香川県
奈良県
京都宇治

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「志野」
日本の数多いやきものの中でも美濃で作られる志野焼はとりわけ人気が高い。
1573年天正年間に美濃、現在多治見市、土岐市のあたりで多く焼かれたものが今にいたっている。
志野焼の良さは白い長石釉がたっぷりと掛かり、そのところに緋色が現れて気品があり、しかもぬくもりが感じられるやきものであることだろう。
鉄の絵を簡略に書いた素朴さもよい感じである。

・志野の中に
<無地志野>
<絵志野>
<鼠志野>つであ
<紅志野>
<練込志野>  の種類がある。

「黄瀬戸」
黄瀬戸は、室町時代からの朽葉色の古瀬戸の流れをくむもので、志野と同じく、桃山時代に穴窯で焼き始められたもの。
きめの細かい土を使い、白く焼きあがる素地に灰と長石、それにいくらかの珪酸分の入った釉を用い、 土と灰の鉄分だけで自然に「黄」が出る。
土と釉と火度が一体となって、初めて出る色調という。ところが現代なかなか名品が生まれぬ理由の一る。

「瀬戸黒」
瀬戸黒の釉は天然の酸化鉄の板風のものに灰を混ぜたもので、窯が1500度ぐらいになったところで鉄のハサミで色見穴から引き出し、冷たい外気にあてて黒くする。

「織部」
織部とは人名である。
古田織部は美濃(現在の岐阜)の出身の豪族で、初め織田信長に、信長の死後は豊臣秀吉に仕えて、 山崎の合戦や紀州征代に武勲を立て、山城西ヶ岡に三万五千石の和行を得た戦国大名である。
そして、秀吉の精神的宿敵とも言える千利休を師とあおぎ、千利休が秀吉に殺された後、 茶の湯の世界をリードした。

桃山時代は、新しい感覚の美術や工芸が次々に生まれ、日本のルネッサンスといわれるが、 やきものでは日本が生んだ世界に誇れる織部焼が生まれた。
この時期、九州の唐津から唐津風連房式登窯が移入された。
これによって、大量に自由に生産された。

織部の特徴は、なんと言っても甚だしく個性の強い異形である。
土を土型に打ち込んで作ったもので、従来のロクロ成形では出来ないさまざまな形のものを作った。 当時の南蛮風を取り込んだり、幾何学的な図案を好んでつけたものが多い。 古田織部が好んでこのような焼物(やきもの)を焼かせたのでこの名がついている。

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「有田焼き」 ― 伊万里 肥前磁器 ―
秀吉の日本統一後、朝鮮の役が無ければ、現在のやきものの世界は、どうなっているかわからない。 戦国大名が連れ帰った朝鮮陶工たちは、西南日本に新しく陶業を開始し、 唐津・萩・上野・平戸・薩摩などの生産地が活動はじめることになった。
*1616年朝鮮帰化陶工「李三平」が肥前有田郷の「泉山」という山で、 素材となる白磁礦を発見して、日本で初めて磁器が作り出されたといわれている。
それまで有田地区では、古唐津系の陶器が焼かれてたが、藩の奨励も加わり大窯業地となる。

秀吉の行った朝鮮出兵によって、九州の諸藩の財政は大きな打撃を受けたが、 鍋島藩は朝鮮帰化人を優遇して陶業の振興に必死に取り組み、半径材を立て直すことができた。 鎖国に入った日本で唯一の対国交易の拠点である長崎出島に近い伊万里湾をもつ有田地区は、 ここから内外に出荷できたことで好条件でもあった。

「京焼」
仁清、乾山、木米、道八などの作者名が表に出る京都は、常に文化の中心として、芸術や文工芸の分野でも指導的立場にあった。
京焼は、個人作家の業績が中心になるもので、九谷や有田といった官窯中心のものとは根本的に違ったやきものである。

野村 仁清

尾形 乾山
(けんざん)





その他
青木 木米

永楽 和全

仁和寺門前に窯を開き、金森宋和の指導のもと倭品を焼いたと言われる。
乾山の号は初めて開窯した鳴滝が都の乾(いぬい)の方角にあることに因んだという。仁清から作陶を学んだ。
当時の都随一画家、光琳は乾山の兄で、初期は合作が多い。
研究心旺盛でその意匠と器種は豊富で、独創性があり、役400年前の作品を日本の陶器は越えられていないのではないか。
木米は、仁阿弥道八・永楽保全とともに幕末京焼の三名工といわれた。 清水六兵衛、19世紀に活躍した永楽和全(保全の長男)など在るが略す。



「楽焼」
多種多様なやきものの中で茶の湯の窯だけに作られたのが楽焼で、千利休の指導により、利休の茶の心を最も端的に示している。
桃山時代秀吉の聚楽第内で初代長次郎によって製陶され、二代目に楽の宮印を賜り、以後楽焼と称するようになった。現在は十五代楽吉左衛門である。

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柿右ェ門系
乳白手素地が完成し、青磁生地も安定したなか、洗練された日本画的色絵が完成される。
①素地の地肌が乳白色で光沢がある。
②上絵に用いた彩釉は、赤・緑・金・黄・青・紫・黒・銀を用いた。 ことに赤の使い方が巧みである。
③柄は、
 A.中国清朝の赤絵を手本にしたもの。
 B.オランダの影響を受けた西洋風のもの。
 C.純然たる日本風のもの。 …の3種がある。


鍋島系
④黒い線で輪郭を取って、色の絵具で埋めてゆく手法。
⑤日本画の世界を連想させる構図の取り方。現在の伊万里市の大川内山で、鍋島藩が焼かせた御用窯であって、一般の人々には手の届かないものであった。

古伊万里系
対外貿易を主眼においた作品群を指す。

分業化専門職を取り入れて、これ等の技術は必死に守られようとしたが、加賀の国から陶法を探りに来るもの(後藤才次郎)、会津から佐藤伊兵衛、瀬戸から加藤民吉など後をたたない。又、藩の人間までも出弄して、砥部焼などが作られるようになった。
日本のやきものを考える上で、世界の動きも又、きりはなして考えることができない。
日本は16世紀末まで陶磁器の超輸入国であった。

中国では、陶磁技術の完成期たる宋代をへて、日本の室町時代から安土、桃山時代、元を経て明の盛期となる。

日本でも染付の存在は知られていたが、青磁さえも焼成する技術がなかったのであるから、豪族、都人たちは中国からの輸入品又、朝鮮、李朝磁器の白磁の輸入品は貴重品であった。

先にも記述したように、1616年に磁器が日本で完成した後も長崎を通じて、中国磁器は輸入されていた。

しかし、40年後の1658年には、オランダ東インド会社によって輸入がはじめて行われる。この年の記録に中国陶磁器輸入の記録はない。つまり40年間 で輸入国から輸出国に転じたのである。これは「私の考え」として記すが、その歴史は日本の自動車産業、又はコンピュータ産業とよく似ている。

他国の技術力を導入して、それを改良・研究して、それを超える商品を作り出してゆくのは、日本民族の最も得意とするところだが、もうこの時、それが行われていた。

朝鮮戦争の時、アメリカの軍需による自動車産業の発展と今日の隆盛、コンピュータ産業の世界的な拡大、これなどがやきもの産業の発展の歴史と似ている点であるので述べていく。

当初はしかし、本家の中国と比較すると全く持って「やぼ」の一言で、劣等の商品であり、量産体制もできず、人気も無かった。

シルクロードは又、セラミックロードの意味合いもあり、中国景徳鎮陶磁は、盛んにヨーロッパへ東インド会社によって運ばれたが、中国は明から清の時代に 返還し、戦争が各地で繰り返され、生産量がどんどん落ちていった。困った東インド会社は、代わりの生産拠点を日本に求めた。途々に育っていた有田の技術は ここでいっぺん開花する。

得意の赤絵の技法を使って、「唐人好み」「ヨーロッパうけ」をねらい、東インド会社の指導を受け、中国景徳鎮を越えてしまうのである。それが古伊万里の 元であり、意匠の特徴ともなっている。外貨を得て、九州地区の釜は増大し、産業としての形を整えていった。

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最後に、美術館、博物館、やきものの本を見ても、うつわの名前が書いてあってどうも解らないと いう事を聞くが、
一つの方式、公式みたいな約束で名前はついている。

釉     絵柄    形    寸法    物    の順

例えば、
色絵    山茶花   葉形    大皿
青白磁   菊彫    耳付    尺寸    花瓶

以上のように分解すれば、それが何を表わし、何に使うもので、どんな大きさか、形かが理解できるはずである。

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